機織唄


機織唄(はたおりうた)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

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とりとめなく考えている、ぼんやりと。
セイレーンの歌声とは、つまり
岸辺の女たちの機織唄ではないのか、と。
神宮に織った布を奉納するのは、岸辺の機屋から。
船着き場の宿場町には、女たちの歌声。
機織りが盛んな土地には、若い娘が奉公に集まり、
技術が伝承され、人の往来があり、産業が栄えた。

地中海沿岸の土着の女神信仰が、
やがて船乗りを惑わす悪霊に零落したとして、
セイレーンの元来の姿は、
航海の安全を祈願する女神ではなかったのか?

機織唄は労働の歌であり、各地に保存されている。
その歌詞は、甚句に近しいという。
日本では甚句に近い歌詞を持つ機織唄だが、多分
古今東西にわたり民謡として残っているだろう。

神御衣祭(かんみそさい)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)


地元図書館の郷土資料から、
調査で集められた機織唄の概要を読んでみた。

「愛知の機織り歌」
(服部勇次/採譜、服部勇次音楽研究所、1992,11発行)

「尾西の機織唄」
(尾西市文化材審議会/編、尾西市教育委員会、1979発行)

奉公に出された若い娘の悲哀や実家の親への郷愁、
恋する男への恨みつらみや訪れを待つ歌、など
機織り作業を歌うにとどまらず
日々の悲喜こもごもを率直にユーモア混じりに
表現した歌詞が多かった。そのなかには
「恋し恋しと鳴く蝉よりも、
鳴かぬ蛍が身を焦がす」
といった聞き覚えのある都々逸も含まれていた。

都都逸「恋し恋しと鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」の成立について知りたい。 | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp)

都々逸 – Wikipedia

>都々逸(どどいつ)とは、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う。
>概略
元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。
七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。
>発祥
扇歌が当時上方を中心に流行っていた「よしこの節」を元に、「名古屋節」の合の手「どどいつどどいつ」(もしくは「どどいつどいどい」)を取入れたという説が有力である。
>名古屋節は、名古屋の熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が関東に流れたもので、音律数も同じであることから、この神戸節を都々逸の起源・原形と考えるむきもある。実際、名古屋市熱田区の伝馬町には「都々逸発祥の地」碑がある。
(以上Wikipedia「都々逸」の項より引用)


こちら、ドワーフ・プラネット「熱田神宮(八百万の神)」 (the-wings-at-dark-dawn.com)

下記は、熱田神宮公式HP より引用。

★ 二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)★
尾張名所図会(おわりめいしょずえ)や
名古屋甚句(なごやじんく)で名高く、
板石が25枚並んでいるところからこの名がついており、
名古屋では最古の石橋といわれております。
昔ながらの優雅な姿は誠に見事です。
名古屋甚句の中には西行法師(さいぎょうほうし)が、
これほど涼しい宮を誰が熱田と名をつけた、
というユーモラスな唄があります。
「ア~ 宮の熱田の二十五丁橋で エ~  ア~
西行法師が腰をかけ 東西南北見渡して
これほど涼しいこの宮を たれが熱田と
ヨ~ ホ ホ ア~アア
名をつけたエ~トコドッコイ ドッコイショ」

熱田神宮 公式HP
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu

発祥の地コレクション(都々逸 発祥之地)
https://840.gnpp.jp/dodoiz/

熱田神宮では、例年5月に御衣祭が行われる。

郷土資料の機織唄の歌詞にも
地元神社を歌う例があったが、
神社と機織りとは古来から関係が深そうだ。
たとえば熱田神宮周辺は
古い港町の面影を残しており、その地で
甚句や都々逸が盛んであったことが、
機織り娘や宿屋のお座敷娘たちの
哀感とユーモアに満ちた歌声と
無縁であったとは思われない。

こちら、ドワーフ・プラネット 「堀川散策」(the-wings-at-dark-dawn.com)


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