常世虫と甚句と


甚句(ジンク)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

>東北地方にはいまなお「ジンコ」という名の唄が各地に点々と残っている。東北弁では、名詞の後に「コ」の字を加えたがる傾向が強いから、「ジンコ」は「ジン」+「コ」ということになり、問題になるのは「ジン」ということばだけということになる。ところで「甚句」ということばは、「音頭と甚句」というぐあいに対句として用いられることが多い。この対句は演唱形式がそのまま曲名になったもので、「音頭」は、1人の人が唄の一部を独唱すると、他の人々が他の部分を声をそろえて斉唱する演唱形式の唄である。これに対して「甚句」すなわち「ジン」は次のように考えられる。秋田、岩手、青森3県の山間部の古風な盆踊りをみると、歌垣(うたがき)的な性格を色濃く残している。すなわち、男女が手拭(てぬぐい)でほおかぶりをし、輪になって踊りながら、そのうちの1人が思う相手に問いかけるようにして歌うと、異性がこれをうけて返歌を歌うという形式である。こうして一晩中踊りが続いていくだけに、「ジン」は「順番」の「順」ではないかと考察される。これに「コ」の字を加えて「順コ」、それが「ジンコ」となまり、江戸時代末期に「甚句」の文字があてられて、以後急激に東日本に広まっていったとするものである。その「甚句」は、七七七五調26音を基本とする詞型で、曲は旧南部領(青森県東部と岩手県の大半)の『ナニャトヤラ』を母体にして派生、『秋田甚句』や『越後(えちご)甚句』が中心になって、その多様化したものが東日本一円に広まり、盆踊り唄、酒盛り唄にと利用されている。そして新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中し、西日本では飛び火のような感じで存在するにとどまっている。
[竹内 勉]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

(上記コトバンクからの引用終了)

「ジンク」とは男女が順番に歌いかける
「歌垣」的な七七七五調26音を基本とする詞型で、
東北地方の盆踊りに古来の面影が残る、という。
(竹内勉氏の説は、とても興味深い)

>その多様化したものが東日本一円に広まり、盆踊り唄、酒盛り唄にと利用されている。そして新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中し、西日本では飛び火のような感じで存在するにとどまっている。(同上引用)

糸魚川、長野県松本、静岡県浜松を結ぶ線以東に
甚句の分布が集中しているという。
甚句に近しい機織唄はどうなのだろうか?

静岡といえば、大化の改新前夜の時代に
「常世虫」への信仰が流行して、
太秦の秦河勝により討伐されたという。
「常世虫」はアゲハチョウの幼虫とも
シンジュサン(野生の蚕)の幼虫とも
推察されている「蚕に似た虫」のこと。

「東国の富士川の近辺の人・大生部多が村人に虫を祀ることを勧めた」
と日本書紀に記述されている。(Wikipedia参照)

富士川に沿って、
古代からの河の神への信仰があり、
国家宗教として導入された仏教への
対抗勢力として新たに「常世虫」が
シンボル化されたのではなかろうか……
古代からの河の神信仰には、
機織り姫(野生の蚕)や豊穣祈願など
含まれていたのでは?

伝承された甚句の分布が、
「新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、
さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中」
していることと、
討伐された「常世虫」の勢力図とには、
どこかで重なりがないだろうか?
と、ぼんやり夢想してみる。
(あてはないけれど心に留めておけば、
やがて何か気づくこともある?


富士川 – Wikipedia

常世神 – Wikipedia

常世虫(とこよのむし)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)


カワヒラコ、夢虫、蚕サン – あかり窓 (memoru-merumo.com)


機織唄


機織唄(はたおりうた)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

甚句(ジンク)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)


とりとめなく考えている、ぼんやりと。
セイレーンの歌声とは、つまり
岸辺の女たちの機織唄ではないのか、と。
神宮に織った布を奉納するのは、岸辺の機屋から。
船着き場の宿場町には、女たちの歌声。
機織りが盛んな土地には、若い娘が奉公に集まり、
技術が伝承され、人の往来があり、産業が栄えた。

地中海沿岸の土着の女神信仰が、
やがて船乗りを惑わす悪霊に零落したとして、
セイレーンの元来の姿は、
航海の安全を祈願する女神ではなかったのか?

機織唄は労働の歌であり、各地に保存されている。
その歌詞は、甚句に近しいという。
日本では甚句に近い歌詞を持つ機織唄だが、多分
古今東西にわたり民謡として残っているだろう。

神御衣祭(かんみそさい)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)


地元図書館の郷土資料から、
調査で集められた機織唄の概要を読んでみた。

「愛知の機織り歌」
(服部勇次/採譜、服部勇次音楽研究所、1992,11発行)

「尾西の機織唄」
(尾西市文化材審議会/編、尾西市教育委員会、1979発行)

奉公に出された若い娘の悲哀や実家の親への郷愁、
恋する男への恨みつらみや訪れを待つ歌、など
機織り作業を歌うにとどまらず
日々の悲喜こもごもを率直にユーモア混じりに
表現した歌詞が多かった。そのなかには
「恋し恋しと鳴く蝉よりも、
鳴かぬ蛍が身を焦がす」
といった聞き覚えのある都々逸も含まれていた。

都都逸「恋し恋しと鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」の成立について知りたい。 | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp)

都々逸 – Wikipedia

>都々逸(どどいつ)とは、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う。
>概略
元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。
七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。
>発祥
扇歌が当時上方を中心に流行っていた「よしこの節」を元に、「名古屋節」の合の手「どどいつどどいつ」(もしくは「どどいつどいどい」)を取入れたという説が有力である。
>名古屋節は、名古屋の熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が関東に流れたもので、音律数も同じであることから、この神戸節を都々逸の起源・原形と考えるむきもある。実際、名古屋市熱田区の伝馬町には「都々逸発祥の地」碑がある。
(以上Wikipedia「都々逸」の項より引用)


こちら、ドワーフ・プラネット「熱田神宮(八百万の神)」 (the-wings-at-dark-dawn.com)

下記は、熱田神宮公式HP より引用。

★ 二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)★
尾張名所図会(おわりめいしょずえ)や
名古屋甚句(なごやじんく)で名高く、
板石が25枚並んでいるところからこの名がついており、
名古屋では最古の石橋といわれております。
昔ながらの優雅な姿は誠に見事です。
名古屋甚句の中には西行法師(さいぎょうほうし)が、
これほど涼しい宮を誰が熱田と名をつけた、
というユーモラスな唄があります。
「ア~ 宮の熱田の二十五丁橋で エ~  ア~
西行法師が腰をかけ 東西南北見渡して
これほど涼しいこの宮を たれが熱田と
ヨ~ ホ ホ ア~アア
名をつけたエ~トコドッコイ ドッコイショ」

熱田神宮 公式HP
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu

発祥の地コレクション(都々逸 発祥之地)
https://840.gnpp.jp/dodoiz/

熱田神宮では、例年5月に御衣祭が行われる。

郷土資料の機織唄の歌詞にも
地元神社を歌う例があったが、
神社と機織りとは古来から関係が深そうだ。
たとえば熱田神宮周辺は
古い港町の面影を残しており、その地で
甚句や都々逸が盛んであったことが、
機織り娘や宿屋のお座敷娘たちの
哀感とユーモアに満ちた歌声と
無縁であったとは思われない。

こちら、ドワーフ・プラネット 「堀川散策」(the-wings-at-dark-dawn.com)


まーふぁのはたおりうた(小野かおる ぶん・え)

「はたおりうた」に関心を持ち、
図書館で検索して見つけた絵本。

落ち着いた柔らかな色調が美しい。
静かに語りかけるような文体の、
アジアの昔話風の創作絵本。
(原話についての紹介がないので、
著者オリジナルの物語だろうか)

織り姫と彦星とを思わせるふたり、
おだやかな幸せを奪う隣国との戦、
心を込めた機織りを邪魔する大臣。
悲しみをこえ天上で結ばれる恋人、
残された美しい麻織物の技と歌声。

ほそーく ほそーく
あさ糸 つむいで
月のひかりを おりこんで
星のひかりを おりこんで
ながーく ながーく

二 四の 糸には 月のひかりを
三 五の 糸には 星のひかりを
ながれる星は 六から一に

月の光のような優しい余韻が残る歌。
いくどか読み直しても余韻は消えない。

作者はすでに他界されているけれど、
「ねずみおことわり」
「はるかぜとぷぅ」
「われたたまご」
など、幼かった頃に読み、
とても好きだった幾冊もの
絵本を思い出した。
他に多数の作品が遺されていると知り、
寂しいけれど、清々しいような
ほっこりと温かい気持ちになった。
まーふぁの布も、きっとそんな肌ざわり
なのだろう。


春の海(Bing Image Creator)

「断夫山古墳」こちら、ドワーフ・プラネット (the-wings-at-dark-dawn.com)

「かつて断夫山は、常日頃の立ち入りが
禁止されていましたが、三月三日だけは
入ることを許されました。
熱田の浜を眼下に見渡せるのは
この時だけでした。」
(名古屋市教育委員会の立て看板より)

名古屋市熱田区にある断夫山古墳は、
ヤマトタケルの妻ミヤズヒメを祀るが、
江戸時代の「尾張名所図会」によれば
三月三日だけ庶民にも解放され、
踏み入ることが許される場所だった。

旧暦三月三日は桃の節句であり、
元は宮中行事だった「ひな祭り」が
江戸時代、庶民にも広まったという。
ひな祭りを検索して思ったのだが、
断夫山古墳への三月三日の入所解禁は、
古代中国より伝来した「上巳」の風習の
名残りだろうか?


(以下、Wikipedia「上巳」より抜粋)

……中国では、漢初より両漢を通して行われた行事であり、『後漢書』礼儀志上には「官民皆な束流の水の上に潔し、洗濯祓除と曰う。宿き垢痰を去りて大潔を為すなり」とあり、官民そろって水辺に出て祓除をする行事であった。

三月上巳に限らず、季節の節に同様の祓除が行われ、この祓除の行事が宮中では洗練され、曲水宴として人工の流水に盃を浮べて酒を飲む宴と変遷した。唐代に至ると、曲水宴は宮中だけでなく上流階級の私宴となり、次第に上巳節は本来の川禊が失われて水辺での春の遊びと変化し、庶民にとっては農事の節日へと展開していった。

春遊踏青という一種のピクニックを行う。杜甫が『麗人行』で「三月三日天気新、長安水辺多麗人。」と述べたように、これは若い男女の恋愛のチャンスであった。また野合が許されることもあった。近代でも『善化縣治』の記載のように絶えてはいなかった。
(抜粋終わり)


上巳 – Wikipedia

上巳節会 – Wikipedia

宮簀媛 – Wikipedia


ミヤズヒメ伝説の残る断夫山古墳から
眺める、桃の節句の春の海。
桃は中国の西王母信仰とも縁が深く、
西王母は、
織物(絹・蚕)や星(オリオン座)など
多様な要素を含む女神である。
ミヤズヒメは、
川辺で布をさらしているときに
旅するヤマトタケルと出会う。
織り姫である西王母の面影がほのみえる
古代尾張の姫(草薙剣の巫女)かもしれない。


トヨタマヒメ幻想 – ぶるーまーぶる (fairy-scope.com)


( 2023.11.11 イラスト作成 Bing Image Creator )


龍宮の姫の相聞歌


赤玉は
緒さへ光れど
白玉(しらたま)の
君が装(よそ)ひし
貴(たふと)くありけり

阿加陀麻波
袁佐閉比迦礼杼
斯良多麻能
岐美何余曽比斯
多布斗久阿理祁理

( 古事記 712年 上巻・歌謡 )

白玉(しらたま)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

トヨタマヒメ – Wikipedia

トヨタマヒメ幻想 – ぶるーまーぶる (fairy-scope.com)


( 2024.1.10~11 イラスト作成 Bing IMage Creator +微修正 )