ゆかりあれば(Suno)


(原詩 ぶるーまーぶる)

ゆかりあれば 薄紫の波にゆられ
紡ぎ歌が 潮風に乗り届くでしょう
たとえ帆が朽ちるほど 時が流れても

ゆかりあれば 薄紫の雨にぬれて
羽音が告げる春は 巡るでしょう
かたいつぼみが 花開くとき

東の果ての島で
やおよろずの語り伝え
まめやかに織り上げて
星の河が地上に届く
紡ぎ歌が 届く
ゆかりあれば
あなたのもとに


( 2024.5.5 楽曲&動画作成 Suno )


船頭小唄


船頭小唄
作詞 :野口雨情 作曲 :中山晋平 1921年(大正10年)
song by NEUTRINO : MERROW
効果音 : 効果音ラボ 様より https://soundeffect-lab.info/
llust : Bing Image Creator+加工
music & 編集 : fairy-scope
2024 ©fairy-scope.com


1.己(おれ)は 河原の
  枯れ芒(すすき)
  同じお前も かれ芒
  どうせ二人は この世では
  花の咲かない 枯れ芒

2.死ぬも生きるも
  ねえお前
  水の流れに 何変(かわ)ろ
  己もお前も 利根川の
  船の船頭で 暮らそうよ

3.枯れた真菰(まこも)に
  照らしてる
  潮来(いたこ)出島(でじま)の
  お月さん
  わたしゃこれから 利根川の
  船の船頭で 暮らすのよ

4.なぜに冷たい
  吹く風が
  枯れた芒の 二人ゆえ
  熱い涙の 出た時は
  汲んでお呉れよ お月さん


船頭小唄 – Wikipedia

野口雨情 – Wikipedia


民謡「枯れすすき」として
野口雨情が作詞。
日本での「セイレーンの歌」は?……と
検索しつつ見つけた大正・昭和の名曲。
簡潔で素朴な言葉だけで
情景が浮かび、心情が伝わる。
よい歌だなあ、と作詞者の名を見ると
「野口雨情」
(という例がこれまで幾度かあった)
(よく知らないけれど気になる詩人)

AI音声とAI絵で動画にしてみた。
野口雨情は童謡を数多く作詞している。
(ゆえにメルヘンっぽい雰囲気も
ひょっとしてなじむのでは?と……)
(雨情さん、おゆるしあれ……)


( 2024.5.1 動画作成 )


常世虫と甚句と


甚句(ジンク)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

>東北地方にはいまなお「ジンコ」という名の唄が各地に点々と残っている。東北弁では、名詞の後に「コ」の字を加えたがる傾向が強いから、「ジンコ」は「ジン」+「コ」ということになり、問題になるのは「ジン」ということばだけということになる。ところで「甚句」ということばは、「音頭と甚句」というぐあいに対句として用いられることが多い。この対句は演唱形式がそのまま曲名になったもので、「音頭」は、1人の人が唄の一部を独唱すると、他の人々が他の部分を声をそろえて斉唱する演唱形式の唄である。これに対して「甚句」すなわち「ジン」は次のように考えられる。秋田、岩手、青森3県の山間部の古風な盆踊りをみると、歌垣(うたがき)的な性格を色濃く残している。すなわち、男女が手拭(てぬぐい)でほおかぶりをし、輪になって踊りながら、そのうちの1人が思う相手に問いかけるようにして歌うと、異性がこれをうけて返歌を歌うという形式である。こうして一晩中踊りが続いていくだけに、「ジン」は「順番」の「順」ではないかと考察される。これに「コ」の字を加えて「順コ」、それが「ジンコ」となまり、江戸時代末期に「甚句」の文字があてられて、以後急激に東日本に広まっていったとするものである。その「甚句」は、七七七五調26音を基本とする詞型で、曲は旧南部領(青森県東部と岩手県の大半)の『ナニャトヤラ』を母体にして派生、『秋田甚句』や『越後(えちご)甚句』が中心になって、その多様化したものが東日本一円に広まり、盆踊り唄、酒盛り唄にと利用されている。そして新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中し、西日本では飛び火のような感じで存在するにとどまっている。
[竹内 勉]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

(上記コトバンクからの引用終了)

「ジンク」とは男女が順番に歌いかける
「歌垣」的な七七七五調26音を基本とする詞型で、
東北地方の盆踊りに古来の面影が残る、という。
(竹内勉氏の説は、とても興味深い)

>その多様化したものが東日本一円に広まり、盆踊り唄、酒盛り唄にと利用されている。そして新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中し、西日本では飛び火のような感じで存在するにとどまっている。(同上引用)

糸魚川、長野県松本、静岡県浜松を結ぶ線以東に
甚句の分布が集中しているという。
甚句に近しい機織唄はどうなのだろうか?

静岡といえば、大化の改新前夜の時代に
「常世虫」への信仰が流行して、
太秦の秦河勝により討伐されたという。
「常世虫」はアゲハチョウの幼虫とも
シンジュサン(野生の蚕)の幼虫とも
推察されている「蚕に似た虫」のこと。

「東国の富士川の近辺の人・大生部多が村人に虫を祀ることを勧めた」
と日本書紀に記述されている。(Wikipedia参照)

富士川に沿って、
古代からの河の神への信仰があり、
国家宗教として導入された仏教への
対抗勢力として新たに「常世虫」が
シンボル化されたのではなかろうか……
古代からの河の神信仰は、
機織り姫(野生の蚕)や豊穣祈願など
民に深く根付いた要素を含んでいたのでは?

伝承された甚句の分布が、
「新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、
さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中」
していることと、
討伐された「常世虫」の勢力図とには、
どこかで重なりがないだろうか?
と、ぼんやり夢想してみる。
(あてはないけれど心に留めておけば、
やがて何か気づくこともある?


富士川 – Wikipedia

常世神 – Wikipedia

常世虫(とこよのむし)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)


カワヒラコ、夢虫、蚕サン – あかり窓 (memoru-merumo.com)


機織唄


機織唄(はたおりうた)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

甚句(ジンク)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)


とりとめなく考えている、ぼんやりと。
セイレーンの歌声とは、つまり
岸辺の女たちの機織唄ではないのか、と。
神宮に織った布を奉納するのは、岸辺の機屋から。
船着き場の宿場町には、女たちの歌声。
機織りが盛んな土地には、若い娘が奉公に集まり、
技術が伝承され、人の往来があり、産業が栄えた。

地中海沿岸の土着の女神信仰が、
やがて船乗りを惑わす悪霊に零落したとして、
セイレーンの元来の姿は、
航海の安全を祈願する女神ではなかったのか?

機織唄は労働の歌であり、各地に保存されている。
その歌詞は、甚句に近しいという。
日本では甚句に近い歌詞を持つ機織唄だが、多分
古今東西にわたり民謡として残っているだろう。

神御衣祭(かんみそさい)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)


地元図書館の郷土資料から、
調査で集められた機織唄の概要を読んでみた。

「愛知の機織り歌」
(服部勇次/採譜、服部勇次音楽研究所、1992,11発行)

「尾西の機織唄」
(尾西市文化材審議会/編、尾西市教育委員会、1979発行)

奉公に出された若い娘の悲哀や実家の親への郷愁、
恋する男への恨みつらみや訪れを待つ歌、など
機織り作業を歌うにとどまらず
日々の悲喜こもごもを率直にユーモア混じりに
表現した歌詞が多かった。そのなかには
「恋し恋しと鳴く蝉よりも、
鳴かぬ蛍が身を焦がす」
といった聞き覚えのある都々逸も含まれていた。

都都逸「恋し恋しと鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」の成立について知りたい。 | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp)

都々逸 – Wikipedia

>都々逸(どどいつ)とは、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う。
>概略
元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。
七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。
>発祥
扇歌が当時上方を中心に流行っていた「よしこの節」を元に、「名古屋節」の合の手「どどいつどどいつ」(もしくは「どどいつどいどい」)を取入れたという説が有力である。
>名古屋節は、名古屋の熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が関東に流れたもので、音律数も同じであることから、この神戸節を都々逸の起源・原形と考えるむきもある。実際、名古屋市熱田区の伝馬町には「都々逸発祥の地」碑がある。
(以上Wikipedia「都々逸」の項より引用)


こちら、ドワーフ・プラネット「熱田神宮(八百万の神)」 (the-wings-at-dark-dawn.com)

下記は、熱田神宮公式HP より引用。

★ 二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)★
尾張名所図会(おわりめいしょずえ)や
名古屋甚句(なごやじんく)で名高く、
板石が25枚並んでいるところからこの名がついており、
名古屋では最古の石橋といわれております。
昔ながらの優雅な姿は誠に見事です。
名古屋甚句の中には西行法師(さいぎょうほうし)が、
これほど涼しい宮を誰が熱田と名をつけた、
というユーモラスな唄があります。
「ア~ 宮の熱田の二十五丁橋で エ~  ア~
西行法師が腰をかけ 東西南北見渡して
これほど涼しいこの宮を たれが熱田と
ヨ~ ホ ホ ア~アア
名をつけたエ~トコドッコイ ドッコイショ」

熱田神宮 公式HP
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu

発祥の地コレクション(都々逸 発祥之地)
https://840.gnpp.jp/dodoiz/

熱田神宮では、例年5月に御衣祭が行われる。

郷土資料の機織唄の歌詞にも
地元神社を歌う例があったが、
神社と機織りとは古来から関係が深そうだ。
たとえば熱田神宮周辺は
古い港町の面影を残しており、その地で
甚句や都々逸が盛んであったことが、
機織り娘や宿屋のお座敷娘たちの
哀感とユーモアに満ちた歌声と
無縁であったとは思われない。

こちら、ドワーフ・プラネット 「堀川散策」(the-wings-at-dark-dawn.com)


藤衣


ゆかりあれば薄紫の波にゆられ
紡ぎ歌が潮風の便りに届くでしょう
たとえ粗い衣が朽ちるほど時が流れても

ゆかりあれば薄紫の雨につつまれ
奏でる羽音 甘く香る春は巡るでしょう
かたい鱗のつぼみも蝶へと花開くから

東の果ての島に生いて
異なる育ちの人々と八百万の語り伝えを
まめやかに結い 編み 織り上げて

はるかな星の河を私は地上におろします
深い波にゆられ 銀の雨につつまれ
夜のほとり 薄紫の雲をなびかせて


( 2024.4.22 イラスト作成 Bing Image Creator )